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局長日誌19 メーホンソーン案内記 第3話

 延々と続く大きなカーブと小さなカーブ。まるで大海に出た船の中にいて大波小波に揺られているようだ。車窓の外は、山、田んぼ、バナナの木、高床式の住居、この4つの要素だけでしか風景は構成されていないのかと言いたくなる様な景色の繰り返しである。私達はクンユアム郡を目指して車で移動しているのだが、クンユアム郡は高地にある為、山を幾つも越えなければならない。実はメーホンソーンからクンユアムまでを通るこの道路を作ったのは、日本陸軍第15師団(祭師団)であったということは知る人ぞ知る話である。記録によると昭和18年、祭師団の兵士達は、現地の人達から「象の道」と言われるような獣道を整備し、チェンマイ = メーホンソーン = クンユアム間の道路を構築した。現在、この道路はアスファルトで整備されており、メーホンソーン市内とクンユアム郡を繋ぐ主要幹線道路として地元の多くの人達から利用されている。 

 メーホンソーン市内から車で走ること約1時間、道路の右手に「日本兵士鎮魂の塔」が姿を現した。この慰霊碑は、元陸軍通訳官だった永瀬隆氏が建立したものである。永瀬氏は、大戦当時、戦場に架ける橋で有名なタイ国カンチャナブリー県の捕虜収容所で日本軍と連合国軍捕虜との間の通訳を務めていた方である。 ちなみにこの碑が建っているところは「ファイポン村」という所だ。昔ビルマ戦線で敗れ撤退してきた日本陸軍の部隊がこの村にしばらくの間駐屯し静養したという。快復した兵隊さん達はチェンマイを目指してここを発ったが、不幸にして亡くなった方はこの地に埋葬された。このファイポン村からは、平成13年に約200柱のご遺骨が発掘されている。

 私は皆さんに下車してもらってこの碑が建立された経緯やこの地がかつて日本陸軍の駐屯地だったことを説明した。そしてここに来る前にあらかじめメーホンソーン市内の市場で買っておいた箒で碑の周りを掃きはじめた。
 慧燈財団がタイの各地に建立した追悼之碑やその他の団体が建立した慰霊碑は、お寺や学校の敷地内に在り、また定期的に管理する人が居るから荒れることはそうない。しかし、このファイポン村の慰霊碑は、ちょうどメーホンソーン市内⇔クンユアム郡の山道の真ん中に在る為、誰も管理する人がおらず、いつ来ても落ち葉で覆われていたり雑草が伸び放題だったりしていてちょっとすさんで見える。だから私はここに来る時には、必ずメーホンソーン市内から買ってきた箒で碑の周りを掃くことにしている。

 今回は皆さんも一緒になってこの慰霊碑の周りを清めてくださった。清掃が終わり用意してきた線香とろうそくを捧げみんなで合掌した。この地に眠る英霊達も、今日は昭恵夫人が真摯に冥福をお祈りされるお姿を見て嬉しかったことだろうと思うと胸に込み上げてくるものがあった。
 お参りを終えた私達は再びワゴン車へ乗車し次の目的地である「クンユアム戦争博物館」を目指した。

 ファイポン村からクンユアムまでは約1時間から1時間半かかる。道路はアスファルトで舗装されているとはいえ、やはりクネクネしたカーブがゴールまで続く。 皆さんさぞかし具合が悪くなってきている頃だろうと思いきや、3人とも意外とすごくはつらつとしていて車中での会話を楽しんでおられる。
「タイに来る前にね、カンボジアのバッタンバンというところに行ってたんだけどね、そこからバンコクまで車で4時間かけて来たんだよね。」私が将口さんに車酔いしてないか訊くと、将口さんはカンボジアからバンコクまで陸路4時間かけてきたことを教えてくれた。「そんでね、その道は舗装されてなくて、凄い道だったんだけどさ、車が途中でパンクしちゃって大変だったんだよ。」 「あの時はどうしようかと思ったよね。」将口さんに続いて昭恵夫人が笑いながら相槌をうった。「いやぁ、ほんと、あの時は大変でした。」と岩城さんも目を細めて笑っている。 皆さんそういう修羅場をくぐってきてこられたとは露知らず、車酔いして具合が悪いのは実は私だけであったようだ。

 車に揺られること約1時間半、漸く民家や役所などの公共施設が視界に現れはじめる。そのまましばらく行くと右手に大きな赤い鳥居が出現した。「クンユアム戦争博物館」の入り口である。

 今回昭恵夫人がタイにいらした最大の理由は、この「クンユアム戦争博物館」を見学する為だ。
将口さんが執筆された「未帰還兵 -62年目の証言-」の中にこの博物館のことが出てくるのだが、それを読まれた昭恵夫人が関心を持たれ、是非ご自分の足で訪れたいと思い立たれたということである。

 博物館の建物の入り口前は緩やかなスロープになっていて、そのスロープの右手には「戦友よ 安らかに 眠れ」と彫られた石碑が建っている。実は、現在博物館が建っている裏手は、この地で亡くなった日本兵士の埋葬場所であった。この博物館の真向かいに「ムアイトゥ寺」というお寺があるのだが、戦中そこには日本軍の野戦病院が設営されており、日本兵士達は、そこで亡くなった戦友の遺体を現在この博物館が建っている裏の土地まで運んできて埋葬した。戦後の発掘調査ではそこから約200柱のご遺骨が発掘されている。私達はこの慰霊碑の前で、線香とろうそくを捧げ合掌し、ここで亡くなった英霊の冥福を祈った。

 祈りを捧げた後、博物館に入った私達に館長さんが博物館作成のビデオを見せてくださった。この博物館が建てられた趣旨などが紹介されている。しかし博物館作成のビデオは英語版とタイ語版しかなった。内容はいい内容なので、いずれ日本語版が出来るのを期待したい。

 ビデオを見終わった私達は中の展示物を順路見学した。まず最初に現れたのは世界に5つしかないといわれている「開戦の詔勅」である。奥に進むと当時日本兵士達が使っていた飯盒、水筒、ヘルメット、外套、毛布などが陳列されていた。 ビルマ戦線が崩壊し、命からがら撤退してきた日本兵士達は何一つ金目のものを持っていなかった。インパール作戦自体が兵站や補給線を軽視した作戦だったため、すでにインドやビルマで連合軍と戦闘中の時から日本将兵達は飢えに苦しんでいた。作戦を遂行中からそんな状況であったから、撤退は壮絶を極めたという。後続の部隊の方が戦後テレビ局のインタビューで話していたが、「草や木があるなら、まだいいが、我々はどちかというと後続部隊でしたからね、もう草や木も前の部隊の人達が撤退する途中で食べつくしているから食べるものが何も無くて・・・。それこそ泥水をすすって下がってきました・・・。」と。 
そんな日本兵士達が生き残って内地の土を再び踏めたのは、自分達が所持していた道具や着ているものを現地の人が持っている食料と物々交換したからである。まさしく幽鬼のようになりながらも漸くクンユアムまで辿り着き、現地の人達と物々交換をすることによって急死に一生を得たのである。物々交換でクンユアムの村人達から一番人気があったのは外套や毛布だったという。 以外に思うかもしれないが、1月、2月のタイ北部、特に山間部では気温がずいぶんと下がる。こちらの家は簡易な作りの高床式であるため、冷たい隙間風も容赦なく入ってくる。当時のタイの山岳部で毛布や外套を持っている人は居なかっただろうし、 日本軍の装備品は当時の最先端をいくものであったということから、現地の人達が毛布や外套を欲しがったということは想像に難くない。

 戦後何十年が経ってクンユアム郡の警察署長としてこの地に赴任してきたチューチャイ ジョムタワット氏は、クンユアムの人達の家々に日本軍関係の品物が大切に保管されてあったことに驚いた。そしてこの地で日本兵士達と現地の人達が育んだ友好の物語を知りこれを風化させてはいけないとこの戦争博物館の設立に尽力された。博物館設立の趣旨に賛同した村人達も自分達が持っていた品物を惜しみなくこの博物館に寄贈したとのことである。

「ここからさ、また更にチェンマイまで歩いて撤退しなければならなかったんでしょう。生きるために最低限必要な水筒や飯盒でさえ、ここで物々交換したということは、相当なことだったと思うよ・・・。」 と重い表情でそれら陳列物を見ていた将口さんが誰に話すとなしに静かに言った。皆、絶句している。 ここに展示されている品々は、その場に居た私達全員に、戦後63年が経った今でも、無言で何かを訴えかけているようであった。


クンユアム戦争博物館前にて
戦争博物館の前にて


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テーマ : タイ・チェンマイ - ジャンル : 海外情報

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