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局長日誌22 メーホンソーン案内記 第6話

 トーペー寺からクンユアムの中心部へ向かう道の途中、私達は「ゲーオおばあさん」のご自宅に立ち寄った。通称''ゲーオおばあさん” 本名 キアオ ジャンタシーマさんはそろそろ米寿を迎えようとしている。 将口さんの著書「未帰還兵 -六十二年目の証言-」の中にも登場するが、ゲーオさんは、クンユアムに後退してきた日本兵士と結婚した方である。 兵士の名前は「フクダ サンペイ」。
 
 戦中戦後、クンユアム郡には多数の日本兵士が駐留したが、フクダさんもその中の一人であった。ある日、フクダさんは、ゲーオさんのお父さんと物々交換の市場で知り合う。フクダさんを気に入った彼は、フクダさんを自宅に連れて帰りもてなした。それがきっかけとなり、フクダさんはゲーオさんの家を度々訪れるようになる。 大東亜戦争が終わり、戦後処理が始まるとクンユアムに駐留していた日本兵士達は次々とチェンマイへ移送されていったが、フクダさんは部隊に復帰せずそのままクンユアムに留まり、ゲーオさんの自宅に匿ってもらいながらこの地で生活を続けた。礼儀正しく真面目で頭脳明晰だったフクダさんをゲーオさんのお父さんは日増しに気に入りついに自分の娘であるゲーオさんにフクダさんと結婚するよう勧めるのであった。 最初ゲーオさんは、周りの目もあり躊躇していたが、結婚を決意する。結婚後は二人の子宝にも恵まれた。手先が器用だったフクダさんは、何でもできた。農作業は勿論のこと、機械の修理、金属加工、電気工事、拳銃まで自分で作ることができた。そして勤勉なフクダさんはとにかく一生懸命働いたし、村人が困っていると親身になって助けた。そんなフクダさんと結婚したゲーオさんを周りの人は羨ましがったという。

 しかしゲーオさんにとっての幸せな日々はそう長くは続かなかった。 戦争が終わってから5年後のある日、フクダさん一家を悲劇が襲う。 国境近くに建てられた発電所の工事現場に勤めに行っていたフクダさんをタイの警察が逮捕し連行したのだ。 フクダさんが旧日本兵士であるということは周知の事実であったが、皆それを承知でフクダさんを匿っていたので、村人にとってこの逮捕劇はまさに寝耳に水であったという。ゲーオさんは、郡の関係者や警察、町の有力者達に、フクダさんを釈放してくれるよう何度も何度も出向いていって嘆願した。 しかしゲーオさんの願いが叶えられることは遂になかった。 それから数日後、とうとうフクダさんは捕縛されたまま象に乗せられチェンマイへと移送されたのであった。チェンマイへ移送されるフクダさんにゲーオさんは3万バーツを渡した。63年前の3万バーツをである。ゲーオさんはたとえ自分と子供達がこれから一文無しになろうとも、フクダさんがこれから行く先々で困らないよう、そしていつの日にかきっとまたクンユアムに帰ってこれるようにと大金をフクダさんに持たせた。 しかし、ゲーオさんの願いも空しく、その日がフクダさんと彼女の今生の別れとなる。

 それから数ヶ月が経ってから、ゲーオさんのもとに悲しい知らせが届いた。フクダさんがバンコクの強制収容所で亡くなったという知らせだ。 フクダさんはチェンマイに移送される途中、脱走を図る。しかし拳銃で足を撃たれその場で取り押さえられてしまう。チェンマイに移送された後はバンコクの強制収容所に収監されたのだが、そこでマラリアを患い死亡する・・・。

 それからのゲーオさんの人生は苦難に満ちたものであった。フクダさんが連行されてからは親戚もゲーオさん一家に冷たくなった。またフクダさんがいた頃はあんなにゲーオさんのことを羨ましがっていた村人達も次第にゲーオさんの悪口を言って蔑むようになった。「あいつは日本人と結婚した女だ」と。 しかしそんな村人の心無い言葉に負けないように、ゲーオさんは一生懸命働いた。フクダとの愛の証である二人の子供達の為に。二人を父のような立派な成人に育てるために。

「フクダにもう一度会いたい・・・。」私達にフクダさんの話を語り終えたゲーオおばあさんがポツリと言った。

目に涙を浮かべながらゲーオおばあさんの話を聞いていた昭恵夫人の頬を涙のしずくがつたう。
「きっと・・・、天国で・・・・、もう一度会えますよ・・・。」声にならない声で昭恵夫人がそう励ますのを私はタイ語に通訳してゲーオおばあさんに伝えた。

それを聞いたゲーオおばあさんは顔の前で合掌し昭恵夫人に深々とお辞儀した。そして「来世でもう一度フクダと一緒になりたい・・・。」と涙ながらに答えた。

「来世はきっとフクダさんと幸せになれますよ。日本で出会うかもしれませんね。」ゲーオおばあさんの肩を抱いて優しく声をかける昭恵夫人。たとえ私がタイ語に通訳しなかったとしても、昭恵夫人の思いやりはゲーオおばあさんに伝わったことだろう。


ゲーオばあさんと昭恵さん




  
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局長日誌21 メーホンソーン案内記 第5話

 昭和19年7月、インパール作戦の中止命令がついに下される。その後、連合軍の激しい追撃を躱しながら険しいビルマの山岳地帯を後退する大日本帝國陸軍第33軍第56師団「龍兵団」の兵士達は、ビルマの「ケマピュー」まで下がってきた。ケマピューからクンユアムまではあと121キロ。しかしケマピューからの道のりがまた苦難の連続であった。

 タイ入国を目指す兵士達の前にまず立ちふさがったのはサルウィン河の難関である。ケマピューのサルウィン河渡河地点は、乾季の時は河幅200メートル程だが、雨季になると500~1000メートルにまで膨張し、上流からは大木がビュービュー流れてくる濁流と成り、サルウィン河の中国名である”怒江”と呼ばれるに相応しい厳しい様相を現すのである。また、サルウィン河を越えたら今度はタイビルマ国境地帯に連なる2000メートル級の山脈を越えなければタイ国内へは入国できない。健常者であっても死ぬ気で行軍しなければならなかったことは間違いない。またそんな悪路を後退し続ける龍兵団の兵士達に容赦なく雨季のスコールが降りつける。さらに兵士達を襲ってくるのはジャングルの猛獣だったり、この時期発生するマラリアやアメーバー赤痢などのウィルスそして何よりも飢えによる空腹感であった。生きるか死ぬかの死線を何度も何度も彷徨い、命からがら漸くタイ国内に入った兵士達は、タイ・ビルマ国境付近のカレン族の村「ファイタヌン村」を通りそしてクンユアム郡の郊外にある「トーペー寺」にやっとの思いで辿り着く。そしてこの「トーペー寺」にしばらくの間逗留しはじめて静養に努めることができたのであった。 しかし残念なことにここでも多くの兵士達がやはり亡くなっていった。毎日のようにバタバタと亡くなる日本兵士達の鎮魂の為、当時のトーペー寺のご住職は、戦後、お寺の境内の真ん中にパコダを建立した。それは、戦歿者に対するご住職のせめてもの思いであったと云われている。 
 そういう経緯から慧燈財団は平成13年に木製の「追悼之碑」を建立し、関係者は追悼供養の為に毎年この地を訪れている。

 このトーペー寺が今回の旅の中では最後の巡礼地である。ファイポン村の慰霊塔、クンユアム戦争博物館に建立された慰霊碑、ムアイトゥ寺の中に建立された二基の慰霊碑、そしてこのトーペー寺の境内に慧燈財団が建立した「タイ・ビルマ方面戦病歿者追悼之碑」合わせて4ヶ所五基の追悼慰霊碑の前で私達は、志半ばにして遠い異国で斃れた勇士のご冥福を心から祈念した。 特に今回は昭恵夫人が真摯に戦歿者の冥福を祈ってくださったことにより、日本を守るためそしてアジア開放のために戦い散華された各々の霊位の魂魄も完全に慰撫されたことだろうと思う。なぜならば、現界の者によって霊が清められる過程においては、祈念する人の魂の質や大きさそして清浄さに霊は如実に反応するからである。



トーペー寺境内 タイ・ビルマ方面戦病歿者追悼之碑の前にて

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局長日誌20 メーホンソーン案内記 第4話

 「クンユアム戦争博物館」を後にした私達は、続いて博物館の真向かいにある「ムアイトゥ寺」の境内に歩を進めた。前回説明したように、戦中戦後このお寺は日本軍の野戦病院として開放されていた場所である。このお寺の境内の中にもやはり二基の慰霊碑が建立されている。私達はそれぞれの慰霊碑を掃き清め、献火献香し合掌した。
 「いやぁ・・・全ての慰霊碑ごとに掃除をしているところや戦死した方達のために一生懸命手を合わせていらっしゃる小西さんの姿を見て感動しました・・・。」英霊の冥福を祈り終えて再び車に戻ろうとした時、岩城さんが目を少し潤ませながら私にこう言った。

 多分、死後の世界を信じない人や、絶対的に日本軍は悪であると思い込んでいる人達には理解できない事だと思うのだが、異国で散華された日本兵士に対し同じ日本人である私達が追悼・慰霊を行うということは、外国の人達の心を強く感動させるらしい。 インターネットや通信システムの発達の恩恵を受けて世界の常識を知っているつもりでその実まったく世界の常識どころか人としての常識さえ知らない島国根性丸出しの無知な「進歩的文化人」と称する左翼の連中は、靖國神社はおろか国内外にある日本将兵の戦死者関連施設を前にしても手を合わせることなどしないし、もしそういう事を日本人が行うところを外国人が見たら、日帝軍国主義の復活だと非難されるぐらいにしか思っていないのだろうが、実は世界の常識いや世界の作法として、自国の戦没者に敬意を表すのは極めて常識的であるということを一般の日本人にも理解しておいてほしい。
 自分の国、王様、国旗、国歌そして自国の勇士に敬意を持つことは、外国では物心ついた時からみんなが分かっているごく当たり前のこと。だから彼ら外国人が来日して驚き、日本人を侮蔑するきっかけの第一歩となるのは、日本人が自分の国の国旗を掲げることを躊躇し、国歌を歌うことを憚る姿を見た時なのである。
 いみじくもタイの老僧が慧燈財団の前理事長を通じて「毎年多くの日本人がこのチェンマイに観光に訪れるが、今もこの地に眠っている日本の兵隊に手を合わせるものは一人もおらん・・・。それが日本人か!それが人間か!!!」と日本人に苦言を呈したとおりである。 

 岩城さんの言葉を聞いてふと、そんなことを思い出した。日本のことが大好きで日本人にまで帰化された岩城さんの目に今の日本はどう映っているのだろう。 
 私は、岩城さんの言葉に対し、「日本人として当たり前のことをしているだけですよ。」と答え車に乗り込んだ。そして次の訪問場所である「パーンさん」の自宅へと行くよう運転手に告げた。


 パーンさんの自宅は、「ムアイトゥ寺」から車で5分くらい行った住宅地の中にある。この辺りに昔から住んでいるお年寄りの多くは、大戦中、日本軍兵士達と交流のあった方達であるが、パーンさんもその中の一人である。パーンさんは80代の女性で、戦中戦後パーンさんの家には日本兵士達が宿泊していたため、将兵達との間では身近な交流があった。パーンさんが述懐するところによると、戦中ビルマを目指してこの地を離れていった日本軍の兵士達は皆、精気溢れる男達であったが、ビルマ戦線崩壊後、再びこの地に戻ってきた兵士達は痩せ衰え、着ているものもボロボロでさながら幽霊のようだったという。
 

 突然の訪問にも関わらず私達がパーンさんのご自宅を訪問すると彼女は快く私達を迎えてくれた。そして日本語で「オカケナサイ、オカケナサイ。」と言って家の中に上がって着座するよう勧めてくれた。
 
 当時日本兵士と交流のあった方達のほとんどは何らかの日本語を覚えていて、私達日本人と会うと片言の日本語で話しかけてくる現地の古老も多いのだが、パーンさんは特にたくさんの日本語を覚えている方である。また「オーテーテー ツーナイデー ノーミーチーヲー ユーケーバー・・・」 「ピッチピッチ チャプチャプ ランランラン・・・」など日本の歌の数フレーズを今も口ずさむことができる。「昔は全部覚えていたんだけどねぇ、年をとるごとにすっかり忘れてしまって。」そうちょっと照れたようにはにかみながら言うと「ちょっと待っててね、上着をとってくるから。」と彼女は言って家の奥に入って行った。そしてしばらくすると白いブラウスを羽織りながら再び私達の前にやってきたのだが、なかなかブラウスの袖が腕を通らないらしく、苦労しているようすだった。すると昭恵夫人がスッとパーンさんの横へ行き、さりげなく袖を通すのを手伝った。「ドウイタシマシテ」とパーンさん。「パーンさん、違いますよ、そういう時の日本語は『ありがとう』でしょ。」と私が彼女にタイ語で説明すると「オー、アリガト、アリガト、アリガト!」と思い出した単語を連呼するパーンさんであった。「アハハハ、どういたしまして。」昭恵夫人もこのやりとりを見て思わず吹き出してしまった。 

 パーンさんがブラウスを羽織り終えてから、改めて兵隊さん達と過ごした思い出で一番楽しかったことは何ですかと私が聞くと、このクンユアムに駐屯した兵隊さん達と一緒に畑仕事に行くことだったとパーンさんは言う。それはなにもパーンさんだけではなく村の子供達にとってもワクワクするような楽しいことだったらしい。パーンさんの自宅に泊まっていた日本軍兵士の中で「サカモト」という将兵が一番偉い人だったらしく、その方は他の兵士達から「タイチョー、タイチョー」と呼ばれていたそうだ。また彼は村の子供達の人気者で、彼が行くところには必ずと言っていいほど子供達がついてまわったそうだ。日本の兵士達が村人の畑の手伝いに行く時に「今日、畑に一緒に行く人、手を挙げて!」とタイチョーが子供達に言うとみんなが手を挙げて、田畑までついて行っていたとパーンさんは話してくれた。 

 日本の兵隊さん達と現地の人達がまるで親兄弟のように交流していた姿がまぶたに浮かぶ。

 時間が許す限り、昔の思い出話をパーンさんに私達は聞いた。もっともっと彼女の話を聞きたかったのだが、今日、他に行かなければならない目的地があと2つこのクンユアム郡の中に残っている。後ろ髪を引かれる思いであったが、私達はパーンさんに別れの挨拶をして彼女の自宅を後にした。

 「サヨナラ 、マタキナサイ」と私達を見送るパーンさんは、私達の姿が見えなくなるまでいつまでもいつまでも手を振っていた。


パーンさんと記念撮影

パーンさんと

 
 
 

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局長日誌19 メーホンソーン案内記 第3話

 延々と続く大きなカーブと小さなカーブ。まるで大海に出た船の中にいて大波小波に揺られているようだ。車窓の外は、山、田んぼ、バナナの木、高床式の住居、この4つの要素だけでしか風景は構成されていないのかと言いたくなる様な景色の繰り返しである。私達はクンユアム郡を目指して車で移動しているのだが、クンユアム郡は高地にある為、山を幾つも越えなければならない。実はメーホンソーンからクンユアムまでを通るこの道路を作ったのは、日本陸軍第15師団(祭師団)であったということは知る人ぞ知る話である。記録によると昭和18年、祭師団の兵士達は、現地の人達から「象の道」と言われるような獣道を整備し、チェンマイ = メーホンソーン = クンユアム間の道路を構築した。現在、この道路はアスファルトで整備されており、メーホンソーン市内とクンユアム郡を繋ぐ主要幹線道路として地元の多くの人達から利用されている。 

 メーホンソーン市内から車で走ること約1時間、道路の右手に「日本兵士鎮魂の塔」が姿を現した。この慰霊碑は、元陸軍通訳官だった永瀬隆氏が建立したものである。永瀬氏は、大戦当時、戦場に架ける橋で有名なタイ国カンチャナブリー県の捕虜収容所で日本軍と連合国軍捕虜との間の通訳を務めていた方である。 ちなみにこの碑が建っているところは「ファイポン村」という所だ。昔ビルマ戦線で敗れ撤退してきた日本陸軍の部隊がこの村にしばらくの間駐屯し静養したという。快復した兵隊さん達はチェンマイを目指してここを発ったが、不幸にして亡くなった方はこの地に埋葬された。このファイポン村からは、平成13年に約200柱のご遺骨が発掘されている。

 私は皆さんに下車してもらってこの碑が建立された経緯やこの地がかつて日本陸軍の駐屯地だったことを説明した。そしてここに来る前にあらかじめメーホンソーン市内の市場で買っておいた箒で碑の周りを掃きはじめた。
 慧燈財団がタイの各地に建立した追悼之碑やその他の団体が建立した慰霊碑は、お寺や学校の敷地内に在り、また定期的に管理する人が居るから荒れることはそうない。しかし、このファイポン村の慰霊碑は、ちょうどメーホンソーン市内⇔クンユアム郡の山道の真ん中に在る為、誰も管理する人がおらず、いつ来ても落ち葉で覆われていたり雑草が伸び放題だったりしていてちょっとすさんで見える。だから私はここに来る時には、必ずメーホンソーン市内から買ってきた箒で碑の周りを掃くことにしている。

 今回は皆さんも一緒になってこの慰霊碑の周りを清めてくださった。清掃が終わり用意してきた線香とろうそくを捧げみんなで合掌した。この地に眠る英霊達も、今日は昭恵夫人が真摯に冥福をお祈りされるお姿を見て嬉しかったことだろうと思うと胸に込み上げてくるものがあった。
 お参りを終えた私達は再びワゴン車へ乗車し次の目的地である「クンユアム戦争博物館」を目指した。

 ファイポン村からクンユアムまでは約1時間から1時間半かかる。道路はアスファルトで舗装されているとはいえ、やはりクネクネしたカーブがゴールまで続く。 皆さんさぞかし具合が悪くなってきている頃だろうと思いきや、3人とも意外とすごくはつらつとしていて車中での会話を楽しんでおられる。
「タイに来る前にね、カンボジアのバッタンバンというところに行ってたんだけどね、そこからバンコクまで車で4時間かけて来たんだよね。」私が将口さんに車酔いしてないか訊くと、将口さんはカンボジアからバンコクまで陸路4時間かけてきたことを教えてくれた。「そんでね、その道は舗装されてなくて、凄い道だったんだけどさ、車が途中でパンクしちゃって大変だったんだよ。」 「あの時はどうしようかと思ったよね。」将口さんに続いて昭恵夫人が笑いながら相槌をうった。「いやぁ、ほんと、あの時は大変でした。」と岩城さんも目を細めて笑っている。 皆さんそういう修羅場をくぐってきてこられたとは露知らず、車酔いして具合が悪いのは実は私だけであったようだ。

 車に揺られること約1時間半、漸く民家や役所などの公共施設が視界に現れはじめる。そのまましばらく行くと右手に大きな赤い鳥居が出現した。「クンユアム戦争博物館」の入り口である。

 今回昭恵夫人がタイにいらした最大の理由は、この「クンユアム戦争博物館」を見学する為だ。
将口さんが執筆された「未帰還兵 -62年目の証言-」の中にこの博物館のことが出てくるのだが、それを読まれた昭恵夫人が関心を持たれ、是非ご自分の足で訪れたいと思い立たれたということである。

 博物館の建物の入り口前は緩やかなスロープになっていて、そのスロープの右手には「戦友よ 安らかに 眠れ」と彫られた石碑が建っている。実は、現在博物館が建っている裏手は、この地で亡くなった日本兵士の埋葬場所であった。この博物館の真向かいに「ムアイトゥ寺」というお寺があるのだが、戦中そこには日本軍の野戦病院が設営されており、日本兵士達は、そこで亡くなった戦友の遺体を現在この博物館が建っている裏の土地まで運んできて埋葬した。戦後の発掘調査ではそこから約200柱のご遺骨が発掘されている。私達はこの慰霊碑の前で、線香とろうそくを捧げ合掌し、ここで亡くなった英霊の冥福を祈った。

 祈りを捧げた後、博物館に入った私達に館長さんが博物館作成のビデオを見せてくださった。この博物館が建てられた趣旨などが紹介されている。しかし博物館作成のビデオは英語版とタイ語版しかなった。内容はいい内容なので、いずれ日本語版が出来るのを期待したい。

 ビデオを見終わった私達は中の展示物を順路見学した。まず最初に現れたのは世界に5つしかないといわれている「開戦の詔勅」である。奥に進むと当時日本兵士達が使っていた飯盒、水筒、ヘルメット、外套、毛布などが陳列されていた。 ビルマ戦線が崩壊し、命からがら撤退してきた日本兵士達は何一つ金目のものを持っていなかった。インパール作戦自体が兵站や補給線を軽視した作戦だったため、すでにインドやビルマで連合軍と戦闘中の時から日本将兵達は飢えに苦しんでいた。作戦を遂行中からそんな状況であったから、撤退は壮絶を極めたという。後続の部隊の方が戦後テレビ局のインタビューで話していたが、「草や木があるなら、まだいいが、我々はどちかというと後続部隊でしたからね、もう草や木も前の部隊の人達が撤退する途中で食べつくしているから食べるものが何も無くて・・・。それこそ泥水をすすって下がってきました・・・。」と。 
そんな日本兵士達が生き残って内地の土を再び踏めたのは、自分達が所持していた道具や着ているものを現地の人が持っている食料と物々交換したからである。まさしく幽鬼のようになりながらも漸くクンユアムまで辿り着き、現地の人達と物々交換をすることによって急死に一生を得たのである。物々交換でクンユアムの村人達から一番人気があったのは外套や毛布だったという。 以外に思うかもしれないが、1月、2月のタイ北部、特に山間部では気温がずいぶんと下がる。こちらの家は簡易な作りの高床式であるため、冷たい隙間風も容赦なく入ってくる。当時のタイの山岳部で毛布や外套を持っている人は居なかっただろうし、 日本軍の装備品は当時の最先端をいくものであったということから、現地の人達が毛布や外套を欲しがったということは想像に難くない。

 戦後何十年が経ってクンユアム郡の警察署長としてこの地に赴任してきたチューチャイ ジョムタワット氏は、クンユアムの人達の家々に日本軍関係の品物が大切に保管されてあったことに驚いた。そしてこの地で日本兵士達と現地の人達が育んだ友好の物語を知りこれを風化させてはいけないとこの戦争博物館の設立に尽力された。博物館設立の趣旨に賛同した村人達も自分達が持っていた品物を惜しみなくこの博物館に寄贈したとのことである。

「ここからさ、また更にチェンマイまで歩いて撤退しなければならなかったんでしょう。生きるために最低限必要な水筒や飯盒でさえ、ここで物々交換したということは、相当なことだったと思うよ・・・。」 と重い表情でそれら陳列物を見ていた将口さんが誰に話すとなしに静かに言った。皆、絶句している。 ここに展示されている品々は、その場に居た私達全員に、戦後63年が経った今でも、無言で何かを訴えかけているようであった。


クンユアム戦争博物館前にて
戦争博物館の前にて


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