メーソットにて思う
中野さんは、新潟県のご出身で戦中は衛生兵としてインパール作戦に従軍、ビルマ戦線を転戦する。中野さんが戦後日本に帰らなかった理由は、戦争中にあるものを見たからである。そのあるものを見てから中野さんは部隊を離隊することを決心したという。離隊後はビルマのカレン族集落などで匿ってもらい現地の女性と結婚し子供ももうけた。しかし戦後間もなくしてビルマ軍によるカレン族掃討作戦が展開され、ビルマに留まっておくことに危険を感じた中野さんは、家族と共にタイ・ビルマ国境付近のメーソット市へ難民として越境、タイに移ってからは、家族の為に人の倍以上働き、現地で成功をおさめた。
中野さんは私が会った元日本兵の方達の中でもとりわけて柔和で上品な方だった。東洋的紳士という形容がぴったりと合う人だった。昨年最後にお会いした時はまだ車を運転されており、とてもお元気そうだったので、今回の知らせには驚かされた。その最後にお会いした時、中野さんから直接聞いたのだが、やはり日本に帰りたかったそうだ。しかしいろいろな事情もあるし、家族のことを考えると日本には帰れなかったという。
戦中はお国の為、戦後は家族の為に自分のことを犠牲にして生きた。
25日の昼に中野さんが亡くなったという知らせがあり、26日のお通夜と27日のお葬式に、チェンマイ在住邦人のTさんと一緒に参加した。私達が中野さんのご自宅に着いた時には、すでにお通夜が営まれ僧侶が読経していた。お通夜にはたくさんの人が集まり、道路沿いにある中野さんのご自宅に入りきれない弔問客が、道路の一車線をつぶして仮設されたテントに並べられた椅子に座り手を合わせていた。Tさんと私は中野さんのご家族に挨拶し、中野さんのご霊前に線香を捧げ、その日はそこを去った。
翌日、本葬は午後からということなので、以前から訪れたいと思っていた、メーソット市とビルマの国境地帯にあるお寺の境内に建立されている「自由戦士之碑」へ朝からお参りに行った。
「自由戦士之碑」は平成13年に桜会の大西代表達や大アジア倶楽部の奈良代表が建立した碑である。自由戦士とは、カレン解放戦線の義勇兵としてカレン族の部隊に参加し、ビルマ軍と戦い戦死した日本人義勇兵の方達のことである。この慰霊碑の背面には3人の日本人自由戦士の名前が刻まれている。当時20代後半から30代前半であった彼らは、民族の尊厳を踏みにじるビルマ政府と戦う少数民族カレン族を支援する為に、この戦いに身を投じ青春を捧げた。
3人の内、2人はマラリヤで亡くなった。もう1人は圧倒的な武力で迫るビルマ軍と激しく交戦中、塹壕の中に一緒にいた3人のカレンの戦友を守る為に、1人塹壕を飛び出し、身代わりとなって敵を引き付け、敵のロケット弾に当たって壮烈な戦死を遂げられた。後日戦闘地帯のその場所へタイの修行僧が袈裟の中に拳銃をしのばせて潜入し、戦死されたその方の遺体をビルマ兵が見ている目の前で掘り起こし、命からがらそこから引上げて、日本の遺族の元へ送る道筋をつけたという。
これらの出来事はほんの10年前に起こった。ちょうど私が建設現場で仕事中、転落事故に遭い生死をさまよった後、病院のベットの上にくくりつけられていた頃である。
私は、彼らの生き様に日本武士道の精神を重ね、感極まった。ひとりでこの場所へ来ていたら私は間違いなく号泣していただろう。
あるメールマガジンに書いていたが、電車の中で席を譲るといった他人の為に自分が我慢する行為を「思いやり」と呼ぶならば、他者の為にまたは自分が守るべきものの為に自らの生命を捧げるということは、他者に対する思いやりの極限の姿と言えるのではないだろうか。
私達は花と供物を碑にお供えし、日本人自由戦士に篤く黙祷を捧げた。
お寺でご住職と雑談した後、私達は「自由戦士之碑」をあとにし、中野さんのご自宅へ向かった。私たちの車が走っている所は、ビルマとはほんの何百メートルしか離れていない。余談だか「自由戦士之碑」が建立されているお寺は以前、ビルマ領内からの砲撃により、本堂が爆破されたことがあるらしい。またこの地帯を警備しているのはタイの正規の兵士ではなく、雇われの民兵である。なんでも、正規のタイ軍兵士をこの場所におくと、ビルマ政府を刺激することになるからわざわざ民兵を雇って警護にあたらせているのだとか。またタイとビルマは長い国境線を隔てて陸続きであるため、どうしても国境警備が手薄になる地帯が出る。それらの地帯では、麻薬の密輸が行なわれており、タイでは大きな社会問題となっている。
中野さんのご自宅には昼時に着いた。ちょうど中野さんのご遺族から昼ごはんが弔問客に振舞われているところだった。
この日のお葬式には、メーソット市在住の邦人の他に、メーソット市で活動する邦人ボランティアの方達も4名出席されていた。メーソット市では中野さんは有名人だったので、メーソットに在住の邦人は全てといっていいほど中野さんをご自宅に訪ねている。また中野さんと実際に接してそのお人柄に触れ、親睦を深めた方達も多い。 邦人ボランティアの方達は、メーソット市にあるビルマ難民(ビルマ人・シャン族・カレン族など、ビルマ政府の迫害から逃れてきた多数の民族を総称してビルマ難民と呼ぶ)のキャンプで活躍されている方達であり、ある方は東京で歯科病院を開業されている歯科医の先生で、毎月2週間程、東京の病院を休業し、そのキャンプを訪れ無償で歯科治療を施しているという。またある方は、20代の整形外科の女医さんで、新婚の旦那さんを日本に残して、キャンプにいるビルマ難民の治療にあたっている。
中野さん、日本人自由戦士、メーソット市のビルマ難民キャンプで活躍する邦人ボランティア・・・
皆自分の個人的な欲は脇に置いて、他人の為に尽くした或いは尽くしている方達であり、彼らの体に流れているのは、自分のことを犠牲にしても、他者を助けたいと願う崇高な精神である。また彼らの行動は、他者に対する思いやりの心の発露とも言えよう。これこそ、世界中の宗教が説いているが、人類がなかなか到達できない境地であり、真の愛ではなかろうか。
今回、中野さんのお通夜とお葬式に参列し、こうしてまた新たなご縁ができた。そして様々なことを感じた2日間であった。さて、私は来年からどのように身を振るべきか・・・
最後に中野さんのご冥福を心より祈りたい。そして64年間本当にお疲れ様でしたという言葉を中野さんに捧げたい。
中野弥一郎お父さん 佛暦2462年7月28日生まれ 佛暦2552年10月25日永眠
享年90歳と書かれている。(仏教では数え歳で年齢を計算する)

お通夜の様子

俳優のようにハンサムな中野さんの壮年時代の写真

中野さんのご遺族

タイ・ビルマ国境地帯に建立されている「自由戦士之碑」

カレン民族の独立を志し 少数民族の人間としての尊厳のために 青春の情熱と命を捧げた日本人自由戦士ここに眠る

お葬式の様子1

お葬式の様子2

中野さんのお孫さんがこの日からしばらくの間出家し中野さんのご冥福を祈る

荼毘に附される前、荼毘が行なわれる会場に集まったたくさんの弔問客。

出征前の中野さんと中野さんの奥さんの若かりし日の写真

テーマ : 思ったこと・感じたこと - ジャンル : 日記
「第3回 日本の歌 メモリアルコンサート in チェンマイ」
私が以前から聴きたいと思っていた「ああモンテンルパの夜は更けて」と「帰り船」が木村天山先生の歌声で聴けて本当に満足しております。また木村先生は「星の流れに」や「岸壁の母」も披露されましたが、先の大戦に関する歌を歌われたら木村先生の右に出る歌手はまずいないでしょう。お世辞ではなく心からそう思います。やはり実際に戦跡に赴かれて追悼慰霊をされている木村先生だからこそ、心を込めて歌うことができるのであり、聴く人の心に歌が持つ”想い”が届くのでしょう。

そしてギタリストの千葉真康さん。千葉さんからは「さくら変奏曲」「アルハンプラの思い出」「マラゲーニャ」のギターソロが披露されましたが、こちらも凄かったです!「さくら変奏曲」はギターの音というより琴の音のようでした。目を閉じて曲だけ聴いていたら、これがギターで演奏されている曲だとは誰も気付かなかったことでしょう。ギターで、大和の国の琴の音色を奏でる、またその曲は日本を代表する曲「さくら」の変奏曲。これが感動せずにいられるでしょうか。また「アルハンプラの思い出」と「マラゲーニャ」は世界的に有名な曲ということですが、私は今回のコンサートで初めてこの曲を聴きました。この曲を聴いて心に浮かんできたのはスペインの情景でした。これらの曲も、ギターというよりスペインの楽器であるマンダリンギターの音を彷彿させます。あとで知ったのですが、両曲ともスペインで生まれた曲だとか。
磨き抜かれたギターのテクニックで、聴衆の心にその曲が作られた背景や情景を思い浮かばせるという素晴らしいギタリスト千葉さん。ちなみに千葉さんは大のタイ料理好きで、今回のチェンマイ滞在では、本場のタイ料理を堪能されておりました。

そして最後にソプラノ歌手の辻友子さん。辻さんのCDを昨年木村先生からいただいたいてからというもの、カセットテープに録音して、車を運転する時はいつも聴いていました。素敵な歌声のこの方はどんな方だろうとずーっと思っていましたが念願叶いはじめてお目にかかりました。歌声のようにとても素敵な方です。辻さんのCDには、万葉集に曲をつけたものが含まれており、これがまたとても素晴らしいのです。和歌の内容に応じてピアノの伴奏がつけられており、例えば志貴皇子の「石(いわ)ばしる 垂水(たるみ)の上のさわらびの 萌えいずる春に なりにけるかも」という和歌を編曲したものでは、石の上をはしる垂水と春の瑞々しさを辻さんの歌声とピアノの伴奏で美しく表現されています。この、曲がついた和歌というのは斬新なアイデアではないでしょうか。曲がついていたら誰でも簡単に覚えられるし記憶にもずーっと定着しますし。今小学校に通っている子供達に是非聴いてもらいたいです。古き良き大和心を持って育ってくれるように。
また辻友子さんのブログでは万葉集の和歌をとても分かりやすく誰にでも分かるように解説されておりますので、是非アクセスしてください。私も辻さんのブログを拝読して万葉集を勉強しています。(でも私が個人的に一番好きなのは、辻さんのホームページ中 プロフィールのページに映っている辻さんの写真。とても美しいです!)
そんな辻さんは万葉歌手と呼ばれている方ですが、今回のコンサートでは「浜地鳥」「君の名は」「水色のワルツ」「ふるさと」「初恋」「帰り来ぬ風」「逢いたくて」を披露されました。

「帰り来ぬ風」と「逢いたくて」は木村天山先生が作詞された曲です。辻さんのCDの最後に「逢いたくて」が入っていたので、車を運転する時はいつも聴いていました。
逢 い た く て
作詞 木村天山 作曲 田原奈津代
逢いたくて 逢いたくて あなたに逢いたくて
生きてきたの 緑の春を待つように 冬の寒さを生きてきた
逢いたくて 逢いたくて あなたに逢いたくて
生きてきたの 朝の光を待つように 夜の暗さを生きてきた
そして今 あなたに逢えた喜び あなたに辿り着いた 嬉しさ
逢いたくて 逢いたくて あなたに逢いたくて
私は特にこの歌が好きでこの曲を何回も巻き戻して聴いていました。
今回のコンサートでは辻さんが直に歌われるのを聴いて感激しました。
この「逢いたくて」という曲は、世に出ている歌の中でお世辞抜きにして私が一番好きな歌でした。しかし今回のコンサートで「逢いたくて」の前に披露された「帰り来ぬ風」を初めて聴いて、これからは「帰り来ぬ風」が私の中ではどんな世界中の曲も適わない一番の曲になりました。
「帰り来ぬ風」は、木村天山先生がトラック諸島で追悼慰霊をされた後、極まる思いを綴られた詩です。
帰 り 来 ぬ 風
作詞 木村天山 作曲 田原奈津代
かの南の島に 吹く風は やさしい
ひとすじの ひとすじの 突風が去り
悲しみの 悲しみの 慟哭が満ちる
祖国への 想い深く そこにたたずむ 魂
かの南の島に 吹く風は 優しい
深い緑に包まれて 無念の想いが満ちる
祖国への 声届かぬ 国を愛した 魂
かの南の島に 吹く風はやさしい
潮風に包まれて 父母(ちちはは)への想いが満ちる
祖国へ帰る願いは 未だかなわぬ 魂
この曲を辻さんの美しい歌声で聴いて、私の胸は締め付けられる思いで一杯になりました。
いや、私だけではありません。このコンサートにご来場された、チェンマイ在住の邦人ロングステーヤーの方達も後日涙が出そうになったとおっしゃっていました。
私は遺骨収集や戦歿者追悼之碑の維持管理を行なっているので、この詩の内容がとても心に響くのです。またロングステーヤーの方の中には、お父さんが先の大戦中南方で戦死された方もいらっしゃるので、万感満る想いであったのではないでしょうか。
実は今回、木村先生から特別に許可をいただき、「第3回 日本の歌 メモリアルコンサート in チェンマイ」において披露された「帰り来ぬ風」を下から視聴できるようにしていますので、どうぞお聴きになってください。(回線が安定していない時は、とぎれとぎれになるかもしれません。その場合は時間をおいてからもう一度開いてみてください。)
http://www.youtube.com/watch?v=em3xQ9dmemo
今回のコンサートでは木村先生をはじめ辻友子さん千葉真康さんテラの会のスタッフの方々には大変お世話になりました。このコンサートでの収益金も、第1回目と第2回目の時と同じように、慧燈財団に寄付していただきました。心より感謝の意を申し上げます。
また当日ご来場の皆様方に於かれましてもこの場をお借りして心から感謝の意を申し上げます。
本当にありがとうございました。
コンサートの記事の前に
以下の写真は、10月15日、チェンマイ県メーワン郡バーンガート中高校の敷地内に建立されている「タイ・ビルマ方面戦病歿者追悼之碑」とインパール作戦に従軍された故藤田松吉さんが、戦後ランプーン県のご自宅の敷地内に建立された「噫々忠烈戦歿勇士の慰霊塔」の前で古神道の作法に則った追悼慰霊を行なわれている様子です。
木村天山先生がチェンマイ県メーワン郡バーンガート中高校敷地内の「タイ・ビルマ方面戦病歿者追悼之碑」にて追悼慰霊を行なわれるのはこれが3回目です。当日は35度超の暑さの中、追悼慰霊の儀を執り行っていただきました。


故藤田松吉さんが個人で建立された「噫々忠烈戦歿勇士の慰霊塔」の前で古神道の作法に則り神呼びの儀式をされる木村先生。慰霊塔の中には藤田さんのご遺骨も納められております。

敬虔なクリスチャンであった故藤田松吉さんに、ソプラノ歌手 辻友子さんより鎮魂歌が捧げられる。

以下の写真は10月16日にチェンマイ県サンサーイ郡にある全寮制の山岳民族子女職業訓練施設においてテラの会が行われた衣服支援の様子。衣服支援だけでなく、生理用品の支援も行なわれました。

生徒の前で日本の歌とクラシックギターのソロが披露されました。

明日から所用があり、チェンマイの隣県チェンラーイ県へ行ってきます。コンサートの記事はチェンラーイ県から帰ってきてからの掲載予定です。
独り言14
記者の主観は、一切含まれない記事。社説もなければ、読者の投稿もない。また広告もない。ただただひたすらに、その日その日に起こった出来事を淡々と報道するだけの新聞。広く浅くをモットーに。
収入は、新聞の売り上げ金と日本を本当に良くしたいと願う有志からの献金にて賄う。日本を良くしたいと心から願う人であれば、思想信条に関わらず献金を受け付ける。また、献金はできないが、この新聞を支持するという人には、その人が持っているホームページやブログ・モブログ・メールなどの情報発信源を使って無償での広報活動を行なってもらう。また、紙として発行するのは経費がかかるというのなら、ウェブサイト上で発信してもいいし、いずれ手帳サイズの電子手帳で情報を入手できる世の中になるので、それを対象としたシステムを構築するのも良いだろう。
このような、特定の意図を含まない記事を掲載する新聞が発行され、広く国民の支持を得られれば、今何をすべきか、何が大事なのか、どう生きていくべきかということを自分の頭で今までよりももっとよく考えることができるようになると思う。
また忙しい日本の会社員にとっても無駄を省いたこのような新聞は、重宝される存在となるのではないだろうか。
私はそういう新聞が現れるまで、一切新聞を読まないことを夏の衆議院総選挙後に決めた。
クンユアムの日本語キャンプ
北タイ散策
クンユアムの日本語キャンプ
文・写真 小西誠
−桑原先生が中心になって−
8月の1日と2日、タイ日友好記念館(旧日本軍戦争博物館)が町のシンボルとして日タイ両国の関心が集まるメーホンソーン県クンユアム郡にあるクンユアムウィタヤー中高校で第1回目の日本語キャンプが開催された。
日本語キャンプとは、一日または数日間をかけて日本語教育や日本文化の紹介および伝承を行なう課外授業であり、日本語学科が開設されているチェンマイ県内の中高校の数校においても年に一回ぐらいの割合で行なわれている。
この度、クンユアムウィタヤー中高校の日本語学科で2年前からボランティア日本語教師として教鞭をとられている桑原ゆき子先生からご招待していただき、この記念すべき第1回目の日本語キャンプにボランティアスタッフの一員として参加してきた。
来タイ前、スリランカで日本語を教えていた桑原先生は、任期を終え日本に帰る旅路の途中、何かに導かれるようにしてクンユアムを訪れたことがきっかけでそのままクンユアムに滞在することになり、ついにクンユアムウィタヤー中高校の日本語学科創設に関わることになったという方だ。
先生はこの学校で日本語を教えている内に、日本語学科の学生の他にも多くの子供達が日本語や日本の文化に興味を持っていることを知り、日本語を学習したことがない子供達も参加できる日本語キャンプを開催することを計画。
それからはまさに東奔西走のご尽力をなさり、今回の運びと相成った訳である。
−キャンプ初日、日本語を教えて−
日本語キャンプ開催初日の朝、高地のシンとした冷たい空気が清々しく薫るクンユアムウィタヤー校の校庭には、この日が来るのを首を長くして待っていたという約100名の生徒達が集まった。そして桑原先生の呼びかけに応じた日本人ボランティア5名がこの2日間のキャンプに参加するためここに集った。
桑原先生がキャンプ初日の午前中のアクティビティーとして用意された活動は、日本の歌の合唱、コマ・ケンダマ・福笑いといった伝統的な日本の遊び、生徒がイメージする日本のスケッチそして簡単な日本語の学習である。これらの活動を日本人ボランティアがそれぞれの特技に合わせて手分けして受け持ち、予め割り振られた教室で授業を行なう。1グループ約25人構成の4グループに分かれた生徒達は、受付時に配布された時間割表に記載されている時間割りと各活動が行なわれる教室の場所を確認しながらローテーション形式で各教室を周りそれぞれの活動に参加する。
私は、以前チェンマイ県内の某高校の教壇に立って日本語を教えていた経験を買われ、初日と2日目の午前中、簡単な日本語の指導を担当することになった。
福笑い
教壇に立つのは約2年ぶりである。チェンマイ市内では、ホワイトボードに専用のペンで板書するのが主流となって久しいが、この学校ではどの教室もいまだ黒板にチョークを使って板書している。生徒が揃い、まず私は簡単な自己紹介をした。そして「クンユアムは、日本の兵隊さんが大変お世話になった場所であり、日タイの友好のシンボルでもあります。この学校で2日間だけではありますが、クンユアムの子供達である皆さんと過ごすことができることをとても嬉しく思います」と率直な気持ちを生徒達に伝え授業を始めた。2年間のブランクは感じなかった。生徒の真剣なまなざしと笑顔に私の日本語指導にも知らず知らずの間に熱が入る。
日本語の授業
私が日本語を教えている間、他の教室でも、各ボランティアの方達が伝統的な日本の遊びや日本の歌などを教えている。私の教室の隣からも「ドラえもん」の歌を日本人ボランティアと練習する子供達の歌声が時折聞こえてきた。
あっという間に45分の授業が終わり生徒達は次の活動が行なわれる教室へと移動して行った。それから間髪入れずに次のグループが教室に入ってくる。
そんなこんなを繰り返し、一気に3グループの生徒達に日本語の指導を終えた頃にはちょうど昼食時となる。
昼食は、チェンマイから参加した元料理人のロングステーヤーNさんとMさんが腕によりをかけて作ったチラシ寿司と味噌汁が振舞われた。生徒と関係者を合わせると約150人分にもなるこの日の昼食をNさん達は朝からずっと用意していた。
テレビの中でしか見たことがなかったという日本料理に子供達も興味津々。味はどうかと訊いてみると「アローイ!(“おいしい”という意味のタイ語)」と満面の笑みを浮かべながら生徒達は答え、皿に大盛りに盛られたチラシ寿司をあっという間に平らげた。
はじめての日本料理
1日目の午後は日本の歌の大合唱や買い物競争に伝言ゲームなどのアクティビティーそれから大日本戸山流居合道という日本陸軍が制定した居合の型の演武そして日タイの民族衣装のファッションショーが行なわれて大変盛り上がり、一日目の日本語キャンプは大成功に終わった。
居合演武
日タイファッションショー
−キャンプ2日目 クンユアムで阿波踊り−
2日目、受付開始の大分前から生徒達が学校に集まってきた。
午前中は、日本語指導と相撲および紙相撲そして日本の高校生の生活を紹介するビデオの視聴等が行なわれた。
そして午後は、Nさんの故郷徳島県の阿波踊りを皆で踊った。阿波踊りの衣装を身にまとったNさんの阿波踊りを見ながら約100名の生徒達が見様見真似で阿波踊りを踊る。阿波踊りは振り付けを容易に覚えられるので、みんなすぐにコツを掴み楽しそうに踊っている。Nさんを囲んだ生徒達の輪はやがて段々と大きくなっていき、生徒達も思い思いに阿波踊りを踊り、予想以上に大いに盛り上がった。
阿波踊り
−閉会そして来年へ向けて−
さて、楽しかった2日間もいよいよ閉会の時がやってきた。閉会式では、先生や生徒の代表からお礼の言葉が桑原先生と私達ボランティアに贈られた。
「メーホンソーンには何校か日本語を教えているところがあるけれど、メーホンソーン県内で日本語キャンプが行なわれたのは、この学校が初めて。桑原先生は何ヶ月も前からこのキャンプを計画してご尽力され、それはこの2日間でついに実を結びました。このキャンプでは、日本語だけでなく日本の伝統文化も子供達が楽しく学ぶことができ、本当に充実した2日間となりました。皆様に感謝するとともに、是非来年も第2回目の日本語キャンプが開かれることを心から希望します」と2日間のキャンプに参加したクンユアムウィタヤー校の教頭先生は
お礼の言葉を述べた。
この2日間の日本語キャンプは大成功に終わった。日本との関係が深く、また多くの日本将兵がこの地の人々に助けてもらった町クンユアム。来年第2回目の日本語キャンプがここクンユアムウィタヤー中高校で開催されることになればまた参加したいと心から思う。(完)
−日本語キャンプに参加したある生徒からの手紙(原文のまま掲載)−
「おいしいごはん、とてもおいしいです。にほんごがあまりわからないのでざんねんです。あん あん あん とってもだいすきにほんです。そしてにほんごです。ありがとうございます・・・」
桑原ゆきこ先生
テーマ : 思ったこと・感じたこと - ジャンル : 日記
第3回 日本の歌 チャリティーコンサートのお知らせ
このチャリティー コンサートでは、ピアノとギターの伴奏による昭和前期の日本の歌曲を中心にプログラムが組まれております。
今回で第3回目となる「日本の歌 メモリアル コンサート in チェンマイ −タイ・ビルマ方面戦病歿者追悼之碑に捧ぐ−」でございますが、第1回、第2回のコンサートにご来場されたお客様からは絶賛の声をいただいております。
前回のプログラムでは、行く春・蘇州夜曲・サンフランシスコのチャイナタウン・砂山・雨降りお月さん・惜別の歌などが披露されました。
これらの曲は昭和48年生まれの私にとって、どれもが始めて聞く歌曲でした。特に「惜別の歌」に関して申し上げますが、私は前回のコンサートで初めてこの惜別の歌を聴いたと同時に、この歌が学徒出陣のことを歌った歌曲だということを知り、先の大戦の戦中戦後に心ならずもタイ北部で亡くなった日本の兵隊さんのご遺骨を収集し、またチェンマイ県メーワン郡のバーンガート中高校に建立されているタイ・ビルマ方面戦病歿者追悼之碑の維持管理を務めている私にとっては、誠に感慨深い思いで一杯になりました。
今回のプログラムの第1部では、このコンサートを主催するテラの会の代表であります
木村天山先生より、ああモンテンルパの夜は更けて・星の流れに・岸壁の母・帰り船・影を慕いて・悲しい酒・別れの一本杉が披露されます。その後、ギターリストの千葉真康さんより、さくら変奏曲のギターソロが披露されて第1部が終わります。そして休憩を挟んでからの第2部では、アルハンプラの思い出そしてマラゲーニャのギターソロが千葉真康さんより披露された後、テラの会のプロデュースにより日本でCDを出されているソプラノ歌手、辻友子さんより、浜千鳥・この道・ふるさと・初恋・君の名は・水色のワルツ・帰り来ぬ風・ビューティフルドリーム・逢いたくてが披露されます。
テラの会を主催されている木村先生は、古神道にも造詣が深く、日本はもとより、タイ・ビルマ・フィリピン・インドネシア・サイパン・トラック諸島などで戦没者の追悼慰霊を行なわれております。つい先日も、フィリピンで追悼慰霊を行なわれてきたばかりです。
今回のプログラムの最初にある、「ああモンテンルパの夜は更けて」という曲と「帰り船」という曲が、誰がどのような状況で作った歌かは存じておりますが、曲を聴くのは初めてですので、私も今から楽しみにしております。
木村先生もそうですし、辻友子さんも本当に素晴らしい歌唱力をお持ちです。
私は慧燈財団顧問理事の名にかけて皆様に保障いたします。
日本語の語感を美しく表現することを大切にして磨かれた歌唱力と古きよき日本の心である大和心がここチェンマイで聴けるこのまたとない機会に、みなさまのご来場を心からお待ち申し上げます。
どうぞ、10月17日土曜日は、邦人・タイ人・外国人を問わずお知り合いの方もお誘い合わせの上、会場へお越しください。
何卒よろしくお願い申し上げます。
尚、このコンサートの収益金は、チェンマイ県メーワン郡バーンガート中高校敷地内にある「タイ・ビルマ方面戦病歿者追悼之碑」を管理している慧燈財団に寄付されます。
出演;歌師 木村天山

ソプラノ 辻友子

ギター 千葉真康

曲目;ピアノとギターの伴奏による、歌謡曲・童謡・歌曲およびクラシックギターソロ
日時;平成21年10月17日(土) 17:30 開場 18:00 開演
場所;AUAランゲージセンター内 AUAオーディトリアム
(ターペー門とプラシン寺を結ぶラチャダムヌーン通りの丁度中間位のところ)
入場料;タイ人無料 その他は一人300バーツ
主催; TW2テラの会 (電話) +81 45−323−1981
(FAX) +81 45−323−1949
現地お問い合わせ先;小西 誠 (電話)085−030−1345
時事雑抄13 自殺防止を考える
という訳で今回は自殺防止について少々論じてみたいと思います。
始めに、なぜ人は自殺するのかということですが、それは死ねば自身が現在直面している問題から楽になれると考えるからではないでしょうか。自殺の動機には、健康問題・鬱病・失業・生活苦・就業失敗・失恋・イジメなどといった理由が挙げられますが、それらの悩み事に心が押しつぶされてしまった時、人はその苦しみから逃れるために、自分の体に自ら手をかけるのだと思います。しかし、人は死んでも生まれ変わるという輪廻転生を有きとするタイやビルマの上座仏教では、自殺をしても苦しみはなくならず、いやむしろ更なる苦しみを味あうとして以下の様に説きます。
夜寝る前にその日一日を振り返ってみて、その日にあった、とても印象的だった出来事をとっさに思い浮かべようとしても1つ2つぐらいしか人は思い出すことはできない。
また、一週間が終わりその週にあった印象的な出来事をとっさに思い出そうとしても、人は1つ2つぐらいの出来事しか思い出すことは出来ない。
また、一ヶ月が終わりその月にあった印象的な出来事をとっさに思い出そうとしても、人は1つ2つぐらいの出来事しか思い出すことは出来ない。
また、一年が終わってからその年にあった印象的な出来事をとっさに思い出そうとしても、人は1つ2つぐらいの出来事しかやはり思い出すことは出来ない。
では、人がその生涯を今まさに閉じようとしている時はどうか。これまで歩んできた人生を振り返り、それがどういう人生だったかを人は大まかに思い出す。
良い人生だったと満足して臨終を迎えるか、悪い人生だったと後悔して臨終を迎えるか、その最後の想念のまま人は来世に生を受けるのである。幸せ一杯の想念で臨終を迎えた人は、幸せな想念のまま次の生を来世で受ける。つまり、生まれたときから幸せを感じるような環境に生まれる。苦しみの想念で臨終を迎えた人は、苦しみの想念のまま次の生を来世で受ける。つまり生まれた時から苦しみを感じる環境に生まれる。
輪廻転生を信じている人それから宗教や天国地獄を信じている人は、これを聞いたら自殺を思い留まるかもしれません。今苦しんでいる気持ちと同じレベルの気持ちから次の人生がスタートすると考えたら、誰でも自殺を思い留まるのではないでしょうか。また輪廻転生や宗教を信じている人達には、私達がこの世に生を受けた理由やこの世での尊い役割も合わせて説くことにより、さらに説得力を増し、自殺を思い留めてもらうことが出来るかもしれません。
しかし、自殺を図ろうとしている人達の中には輪廻や宗教を信じていない人達も大勢います。だから唯物論的にも自殺がなぜいけないことなのかを説明することができなければなりませんし、哲学的・唯物的双方の観点から説明する事ができれば、より説得力を増すでしょう。更に、子供でも納得するような分かり易い説明が出来、それを人類が共有することが出来れば、自殺者の数が減少する可能性はあるのではないかと私は考えます。
ではその唯物的な論理を背景とした自殺防止の説明の仕方ですが、これがとても難しいのです。
「輪廻転生などない。人は死ねば無になるだけだ」、「別に頼んで生まれてきたのではない」、「自分は必要とされていない」、「自分の命をどう扱おうと自分の勝手だ」と考えている人にどう説明して自殺を思い留まってもらったらよいのかということで、いろいろと考えているのですが、私が考えている中でこれが一番説得力があるかなと今のところ自分で思うのは以下の様な説明です。
なぜ自殺がいけないのかということだけど、例えば隣の家の人が自殺して亡くなったと聞いたら、あなたやあなたの家族はどんな気持ちになる?或いは、同じ学校に通っている生徒の誰かが自殺して亡くなったら、次の日の朝あなたや他の学生達はどういう気持ちで学校へ行きますか?または電車待ちで駅のプラットホームに並んでいる時に来た電車にあなたの前に並んでいる人が飛び込んだら、あなたやその駅に居合わせた人達はその日をどういう気持ちで過ごすだろう?苦しいからといって皆が簡単に自殺してしまう世の中になったら、すごく暗い世の中になってしまうと思わない?あなたが自殺を思い留まることによって、この世の中は暗くならないんだよ。つまりあなたが生きていてくれているということは、みんなが気持ちよく暮らせる世の中を創る基本でもあるということなんだ。あなたはこの世に必要とされている大切な人なんだよ。
とても拙い説得の仕方ですが、今の私が思いつく唯物論的自殺防止の説明は上記の様なものです。
これからもどうやったら自殺者を減らせることが出来るかをあらゆる側面から考えていきたいと思います。
独り言13
8月6日、9日の原爆の日。そして15日の終戦記念日。日本が人類の進化の過程において演じた役割を深く深く考えると、人は誰でも哲学者になれる。
なぜ戦争を始めなければならなかったのか、なぜあの若き特攻隊員達は、私心を捨てて敵艦隊に特攻したのか、なぜ無辜の人達の頭上に焼夷弾や原爆が落とされたのか、神や仏がいるとするならば、なぜ神仏は日本が戦争に負ける筋書きを書いたのか・・・
あの戦争以来、日本は世界の国々の中で普通の国には成りえない。特別な国として人類の進化向上にこれからも大きく関わっていくだろう。
あの戦争は、戦後の日本人全てを哲学者にする可能性を偶然かそれとも意図的にか与えてくれた戦争だったと最近私は思うようになった。
但し、先の大戦について、私達日本人の一人ひとりが深く考えることが条件ではあるが。
テーマ : 思ったこと・感じたこと - ジャンル : 日記
タイ雑抄7 日本男児の心意気
世界戦がチェンマイで行なわれるというとても珍しい機会でしたので、多くのタイ人がポンサック選手の応援に駆けつけ、会場を埋め尽くしました。
私は日頃から懇意にしていただいている在チェンマイの日本人の方達と一緒に会場入りし、日の丸の国旗を思う存分振り回せるよう後方に陣取り、イスの上に立って日の丸を振り続けました。また私達の他にも日の丸を持って応援に駆けつけた邦人が数名いらっしゃいました。
さて試合の内容ですが、升田選手は、1ラウンドに強烈なパンチを受けダウン。6ラウンドでTKO負けを喫しました。 ポンサックレック選手は、別名「グラティンデーン」(赤い闘牛)という異名を持つボクサーです。その異名通り、1ラウンドから升田選手を猛攻。それに対して升田選手は、過酷な減量と野外の暑さからか、持分を発揮できない様子でした。自身のブログには、1ラウンド終了後からは、まったく記憶が無いと書かれていました。
では、升田選手がどれくらい過酷な減量を試合前に行なっていたかを、彼のブログから以下引用したいと思います。
1R目しか覚えてない…
今回は減量に苦しんだ事もあり
最悪な体調ではありました。
アップの時点で
射場トレーナーは升田は今日動けないと
西川トレーナーに相談してたみたいです。
僕の身体の方が心配みたいで
動き止まったらタオル投げると話し合いしてたみたいです。
確かに動かなかった…
僕は練習で本当に汗かかない。
真夏にストーブ焚いて
サウナスーツ着込んでも2〜300グラムしか落ちない。
今回も一週間前から絶食。
ひたすらガムかんで唾液出してました。
そしてタイ入り前日に血を400cc抜いてタイ入り後もガム買い溜めして唾液出しまくってました。
この一週間血圧も90と低く危ないと言われてました。
恐らく殴られて記憶無くなったわけではなく
頭に血液が回ってなかったんだと思います。
1R目はあまりパンチもらって無かったですが
インターバルですでに焦点合ってなかったと射場トレーナーも
驚いてました。
しゃべってる事も何を言っているのか分からなかったと…
この状態でありながら、タイ人応援団がリング取り囲む会場で彼は戦ったのです。
1ラウンド終了後から、記憶の無い状態で6ラウンドまで戦い続けたのは、もしかしたら日の丸が彼の大和魂に火を付けたからでしょうか。
というのも、1ラウンド目から私達は、日の丸を升田選手から見える位置で振りまくっていたのですが、特に4ラウンド終了後のインターバルの時のことでした。青コーナーでイスに座っていた升田選手が、日の丸を振りまくる私達の方へ顔を向け、しばらくの間凝視したのです。私は彼がこちらをじっと見つめているのを見て、さらに激しく日の丸を振りながら、「升田!お前も日本の男だったら、ポンサックを打って、打って、打ちまくれ!!!」と彼に声援を送りました。
1ラウンドから記憶が飛んだと彼は言っているので、きっと覚えていないでしょうけど、彼の視界に日の丸はしかと映ったはずだと思います。そしてその映った日の丸は少なからずも彼の闘志を燃やす役割を果たしたことと信じたく思います。
彼の試合について、いろいろひどく書いている匿名のブログなどもあるようですが、私は、升田選手があのコンディションにも関わらず、敵地に単身乗り込んで戦い玉砕したことを
日本男児の誇りと思います。
さて、気になる今後の升田選手の動向ですが、彼はフライ級からバンタム級に階級を移して戦うことを表明しています。
戦い続ける男、升田選手。これからの彼に大いに期待したいと思います。
試合会場風景

左 青コーナー 升田選手 右 赤コーナー ポンサックレック選手

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